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2010年2月18日木曜日

2009年11月22日伊勢までドライブ

今日は、なんとなく、伊勢までドライブ。
写真撮ってくれと言われた紅葉。
長距離ドライブはなかなか大変。
トイレ休憩がSAごとにある。
息子はSAが大好きで、SAごとの違いや公園ゾーンの形などを堪能したがるし、食べもしないのに、レストランメニューやお土産が気になるから、したくもないのに父に合わせてトイレと言う。
父は頻尿と頻便でトイレに行きたがる。
父はやたら下着を着込んでいるのに、上からベストやジャンパーを着込んで乗るので、ベストまで脱がす事に成功したとしても、トレーナーの下のチョッキ型下着やその下の保温ジジシャツなどでかなり暑い。なのに末梢神経が冷えを感じるらしく、手足先が寒いと言って暖房をいれるので、蒸れて気持ち悪くなる。そして窓を開けたり閉めたり。こっちは普通の服装で暖房いれてるのが適温なのに、開け閉めで寒いし、蒸れてイライラする本人、蒸れて気分悪そうにする本人を見ていると、だから蒸れてしんどいねんって話になる。
これまた認知症の人がやる症状だとわかっちゃいるけど、言うことは聞かないし、暑いからふうふう言うし、ぷしゅーって認知症の人のよくやる呼吸動作をする。ひどいときには、イレバの中から出てきた食べかすをプシューどころかぺっぺっと正面のフロントガラスにとばしている。無意識に非常識行為をしているのだが、指摘しても、息してるだけやと言われる。
父はキレイ好きだったし、マナーにもうるさい、他人にどう思われるか考えて、育ちの悪いような事はするなと言われて育ったので、その父が認知症のせいで、非常識行為をすると、本当に憤りを感じるし、腹もたつし、やめてほしいし、イライラするし、病気のせいでも毎日のやなことなのでとうとう本当にストレス原になってしまって、どうにも受け入れもなにもできやしない自分に腹がたったりもする。
ストレスをためないようにするには、回避策をうつしかない。
文句を言われたおしても、脱がす。理解力がないわけではないので、その音ださんといてと言ってとめる。我慢ならないし、しゃーないと思えないんだから、させないようにする。
もちろんいちいちやめてくれと言われる事で、父もストレスがかかるが、かかったストレスも父は私よりも忘れる能力にたけている。忘れる能力の高い人が忘れてくれるならそれもいい。忘れずに覚えていて、いつも言われるとかって話もするだろうけど、まぁ発生した車の中のその場は数分後には違う話をしたりして、忘れているので収まるから良い。病気に我慢するのは、一方的にまわりの者である必要はないと思う。
認知症の本人に怒った事がないと言う介護者がいた。
ドラえもんのデキスギ君かと思った。
家族って、病気があろうがなかろうが、正面きってぶつかり合える間がらである事こそが家族な気がする。
体や心の病気についても、自分の思いについても、隠し合う事が家族だろうか?
家族の暮らしの中で、何かが原因になっているとしたら、どっちかが相手に黙ってカバーして暮らし続けるのは至難の業だと思う。どこかでばれる。疲れる。つぶれるかもしれない。
悲しい、楽しい、おもしろい、おいしい。そういった感情は、この病気によって、本人から将来奪われていくものではある。でも気持ちを隠しあう、伝え合わないで、本人がうつうつ思い悩んでいく、家族が本人の世界観を守って、健康な時と違う事をしても、一般的でない事をしても、黙って耐える、仕方ないと受け入れるなどで本当に心にわいた気持ちの多くを隠して接するとしたら、感情の伝達能力は病気の進行だけでなく、環境的問題、家族間の気持ちの交流が正しくなされていない事で能力を使わずに低下させているとは考えられないだろうか。
なにもがみがみときつく言う事ではなく、通じる程度に言うのだけど、本人にとっては言われて騒音になる事もある。何せ本人の世界観の中では丸く収まっている事を、家族は間違っていると言うのだから。本人の記憶以外の認識力が高い方は、認知症の方の中でも、初期や若年などに結構いらっしゃると思う。そういった方は、騒音ととらえる時期もあるが、言われているのは、自分が非常識な事をしたからだと、なんとなく認識できて、また自分が何か非常識な事をしたのだとわかって、その行為をその時だけやめる事が可能だったりする。そのうち指摘される事が自分の行いのおかしくなっている部分だと気づけて、おかしい事をしていると言われると、おかしくないようにしようとする。
うちの父は心身の調子次第で、そういう事ができる。
できない時はできない。逆切れする。
知り合いのみんなには逆ギレするなんて想像ができないかもしれない。
それを知るのは、私と息子だけかもしれない。
息子はおじいちゃんの病気ゆえの言動を理解している。
理解していても、泣かされてママーと来る事もある。
私が逆切れされて、ストレスを感じている時、唯一の理解者の息子は、またかという顔をする。それをみて、ああ理解している人がいると思う事でちょっと救われる自分がいる。
だから、私は、ストレスに感じる言動をされた時、息子にこんなことされたと伝える。聞いた息子がまたかと思うと、私はちょっと癒されるのかもしれない。
本来他人の理解者がいる事がこういうものには有効だと思う。
たとえば、父には精神科訪問看護士という父からの話を漏らさない守秘義務をもった人間が、父の気持ちを聞き取っている。聞き取れるだけの信頼関係ができるまで日にちはかかったが、いまだにその存在は父には有効である。
では、家族にはどうだろうか?
だれが家族の思いを聞き取るのか?
親切なケアマネやデイ職員、小規模職員でもいいし、担当医のところのケースワーカーでもよい。
だけども、家族というのは、彼らにわざわざ会いに出かけたりして話しをしようとはしない。
私も含め自分の中にため込むものだ。
家族が複数いるのであれば、家族の内で、話題として日常に話しをしてお互い、患者である家族の言動に対する理解を共有する事で、介護者が一人のケースに比べれば、孤独に思いを抱え込むストレスは軽減されると思う。
そのあたりの支援制度の不足に何かないものかと思う。
専門職に話しをするのは、なかなか難しい。かと言って家族会はというと、家族会での交流会と言われる場では、お困りのことは?と聞かれて、言うと古い経験談が返ってくるとか、他の家族のお困りの事を聞くだけとか、順繰りに話しをするだけ。交流会とは名ばかりと感じて帰ったと聞く事も多い。私も何回か、「交流会ちゃうやん。交流してないし。」と思った事がある。
交流会というイメージは、他の家族さんと井戸端会議のように、対等に対話するようなイメージだけど、実際は違うようだ。
そういう思いから、私のやる交流会では、みんなと会話して、交流感覚を持ってもらえるようにと、私のできる範囲で努力している。
うちは本人も同室でやっているし、一緒に来ているのだが、一緒に交流したと思えるように、今後はもっと努力しなければと思っている。
認知症の人に名前は覚えてもらわなくても良い。私を認識し続けてもらえるように、話かけ、交流するようにしている。みんなの思いを聞き取っていると、本人は自発性が低下しているので、本人からはなかなか話してこないし、本人と話す時間が少なくなってしまう。ぼーっとしている時間が増えると、とっても残念に思う。そういう時は、私のように本人に接する気持ちのある方がもっといてくれたらいいのにと思う。

写真は、「内宮の紅葉撮って」「おかげ横町のいつものコロッケ」「おかげ横町のスープ三種類食べ比べ」「おかげ横町のノリラーメン焼き豚美味しいので単品も食べた」「帰りのSAのこれってブランド牛?でもスエヒロ?」です。

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