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2010年3月9日火曜日

2010/02/04 外科で手術日相談



今日は、朝から訪問看護でちょっとゴキゲン。
終わって、一緒に総合病院へ。
私の腎臓の受診日だったんだけど、父の希望で、外科の先生に脱腸について相談も。
手術は春休みにすると本人が言ってるんだけど、胃が最近よく痛いから、早くしなくちゃダメなのじゃないかと不安がっていて、外科で相談。
外科の先生は、胃は違うよーという感じで、心配なんやったら、腸終わって、まだ痛いなら、次胃を調べて治そうという話。
結構不安感につきあって、認知症の人扱いせず話してくれてました。
でも、まぁ、春休みに手術するなら検査回っておかないとねって、話で、術前検査に回って帰る事にしました。
お昼ご飯を食べた、お店の写真です。

新しく八坂さんの近くに出来たおそばやさん。


夜は子供の喘息の通院日でした。
一日中病院なんですけど。。。
疲れるんですけど。。。
ストレスかかるんですけど。
誰も知らないストレスですね。
腎臓も検査結果イマイチです。

認知症の方と暮らすご家庭において、たとえばご夫婦で、片方が認知症ですという場合に、本人にも相方にもそれぞれ日常に健康な人同士の暮らしと違うストレスがあります。
認知症の人と暮らすストレスは、なかなか言葉にはできません。
本人のストレスは、自分が自分らしくない事が気づけるうちは、その葛藤と、記憶違いでうまくいかない物事に対する憤りなど、家族に迷惑をかけている気がする事など。
家族のストレスは、それらを見ているストレスと、対応するストレス、認知症じゃなかった時は、しなかった言動を見守るストレス、以前との違いに気づくストレス、受け入れるストレス、受け止められないストレス、今後についての不安、心配、経済的な問題など。
短期的に終わるであろうガンなどとは違って、進行の先が見えない、進行過程も症状も、それぞれかなり違いがあり、性格が変わったりする精神的変化などが強いので、家族としてもその人と共に生きる、共に暮らす事の困難さに直面する。
そういう事って、なかなか表に出ない。
だいたい、誰に話すというのか。
経験者にしか通じなかったりする中で、身近なところに経験者はいない。
専門職は他人事として知っていて、見て経験しているが、身内としての経験はない事が多い。
たまに家族に認知症がいたという方に出会うけど、だからと言ってこのストレス環境について理解し、癒しとなる事や、聞くだけでもという立場にはなる気になってくれない。
自分の日常だけで忙しいのである。
たいていの家族さんは、本人と相方のストレスを内にため込んで、息子や娘世代がいても伝えずにいる。
ケアマネなどがついていても、よっぽど優秀で、自分の職務外かもって所まで、時間をさいて、寄り添える人でもなければ、なかなか実際の暮らしの中の大変さに気づかず、本人と家族の為になるプランを描くことはできない。
本人のこれからの為に、そして家族が共に暮らす事で倒れない、心のゆとりをもった暮らしを本人に対して提供できる常態にする事、そういう視点で見れるケアマネなんてなかなかいない。
制度では、介護者同居だと、使えませんから。などと言うし、本人のどれぐらいできなくなっているか、できるけどやれないぐらい本人の精神状態が悪いのだという事などに気づけていなかったり、本人と家族の精神状態を安定させれば、周辺症状が改善されるのにそれが気づけないケアマネとかもいる。
うちのケアマネは親身で良いですと聞く事は少ない。
親身と言うには、それぐらいして職務内だよねという程度の親身の話も聞く。
ケアマネの報酬はたいしたことがないし、楽なケースを何件か持っておいて、ハンコだけですむ人と、職務外的時間を割かなくちゃいけない常態の家族にはそれなりに対応してあげる、ある意味そこには無償ボランティアに近い気持ちをもってぐらいでないと、十分と感じないかもしれない。
日々の暮らし、一日中、日夜の中にある本人の、健康だった頃と違う言動に、つきあう家族というのは、ものすごーく沢山の、はたから見ればささいなと呼べる事で、小さな積み重ねが多きなストレスになってつもっていく。優しく接して、間違いを正さないなど、きれい事に聞こえる程、病気だからではすませられない程、介護者が日々の暮らしで疲弊してしまう。
介護者というより、同居者として考えてもそうだ。肉体的な介護に行く前に、疲弊してしまう家族、そこに目を向けないと、本人の進行にとってよくない。日々接する人が良い精神状態でないと、よい対応ができず、本人が自分の今を混乱してしまって、病気の脳に悪い刺激を与える。
わかっていても、私でもできやしない。
みんなは出来てると思っているのかもしれないけれど。できません。
我慢してとか、受け入れてとか、そういうレベルの問題ではないです。
病気やから仕方ない、も積もると、長いと、もううんざりにもなるんです。
で、どう手をうつかが重要で、本人が変な言動をしないように、前もって手をうつようにしています。
そして、いらっとくるような事をされる前に、されないようにします。
でも、避けきれない時は、出来事を無視します。
悲しい事ですが、それも私なりのレスパイトです。
日本の介護や福祉の政策は、施設介護も在宅介護も整備が遅れています。
家族が疲弊したら、介護はできないし、職への復帰、離職問題、そういう人の経済的困難など、配慮が不足しすぎています。
介護施設の職員の給与がどーのとか言っていますが、経済の活性化には、在宅介護や施設介護で家族が安心して仕事をしながらができるような、たとえば夜家に帰ったら認知症の人との暮らしが待っている常態であっても、その中で肉体労働的介護はヘルパーなどがやってくれて、今日は楽しかったよ、介護職員とはどんなだったの?と言えるような、充実したワークライフバランスを、介護が暮らしの中にあってもできれば良いと思います。暮らしにバランスがあって、離職しないで、制度利用をしていけたら、制度利用によって費用は多少払うけれど、その払う為に働く時間がとれて、働く時間に気分転換ができて、費用の受け渡しによって、福祉にもお金が流れ、職員にもお金がまわる。
認知症の人が家族と分離不安がある事も多いので、そういう家庭で、介護者が働かないと経済的に困難であれば、今選ばれる方法は、離婚や別居で、生活保護を本人が受給し、介護者はパートで仕事をしながら住居のみ生活保護を受けるなどを聞いた事があります。
しかし、他にも方法はあると思います。書くと長いし、研究したい事でもあるので、今日はやめておきますが、ワークライフバランスというのは、生活と仕事だけではなくなりつつあります。
高齢化社会、早期発見のガンなど病気の発症が若い事が増えてきた中では、介護もライフの部分の中に含まれて存在する時代であると思います。
十分なケアをしてくれる専門職にゆだねるには、認知症だけでなく、肢体不自由な方などそれぞれの特徴にあった専門的知識とケアを、年齢別で受けられる施設の方が、誰もがストレスが少ないと思います。
混在するケアは、施設職員も大変だし、本人達も能力差で、既存能力を十分いかせなかったり、世代ギャップでレクの歌も違う、そんなところに行くのは嫌って事になります。
これから増加する介護というものにたいしての、アプローチがコストを気にして、逆にコストがあがるような、進行を助長するようなシステムになっているように思います。
夢や希望のある20.30台の若者が、親の介護や、理想の介護職になろうとしてなどで、現状の介護生活、介護の仕事に夢や希望を奪われるケースを知っています。
それは本当に残念な事です。
こころざしをいかせない制度ばかりで、残念でなりません。
時代はかわっているのに、制度が良い方向にかわっていかないのはどうしてでしょうか。
民主党になったから、かわるはずなのにな、と父は言います。
私は民主党だろうが、頭がすげかわっただけでは変わらないと思います。
よくない頭に変わったのかもしれませんし、どの党であろうが、現場の現実を知った方が、改善策を考え、改善していくのが一番だと思います。
そういう意味では、桝添さんが厚労省の時は、ちょっと期待したんですけど。
桝添さんに手紙を書こうかと思いました。
聞いてくれそうに思ったので。
行政の人で、うちにも認知症の親がいたからわかりますと言う人でも、嫁がみてたからろくに知らない人と、嫁がメインだけど自分も現状把握してちゃんとみてたって人は、ぜんぜんちがいます。その方のいる部署は認知症理解に対して積極性が違いましたし、行政としての動きも違いました。
他府県で何人もそういうちゃんと取り組もうとする行政の人に会いましたが、なんだか地元では出会いませんね。。。
京都どうなってるんでしょうか。

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