朝から精神科訪問看護の訪問作業療法さんが来て、父はゴキゲンです。
月曜はいつもそうです。
若くてかわいいおねーさんが来るので、たいてい布団をあげて、きちんと着替えて、お風呂も入って、掃除もして待ちます。
訪問看護なんて、なんで自分に必要か理解できず拒否した時もありますし、一日中ふとんに居た時期もありました。
その頃と比べると、この違いはすごく大きいです。
たとえそれが仕事で来ているのであっても、医療の為であっても、自分に対して会いに来る人がいるというのは、毎週の積み重ねで、絆もはぐくまれますし、習慣性もできますので、嫌だった時代が夢のように良い状態になりました。
すべての患者さんがこのようにいくわけではありません。
進行が強い方や、すでに随分進行している方は、このようにはいかないと思います。
しかし、本人と他人の絆が一つある事、なんであれ定期的に他人が来る事は、見捨てられた人のような気分の本人にとって、有効な薬だと思います。
家族はどこであれ相談機関があったり、介護者仲間が存在したりしますが、本人の孤独感や絶望感は、気持ちを話せる相手がいない事にも原因があり、そのような環境にある事で精神的症状、周辺症状、家族に対しての会話の円滑さなどにおいて問題が強まると思います。
訪問看護は、うまくいけばそんな本人にとって気持ちの話せる相手ができる事にもなります。
脳の常態が悪くなっていくせいでおきる記憶力や判断力、思考力、段取りなど様々な能力の低下とは別に、孤独感による精神常態の悪化によるウツの症状や、不安感という部分に対して、アプローチする事で、心の健康状態を改善し、肉体の衰えを避け、脳の活性化や、暮らしの中の家族との時間の有効活用につながっていくように思います。
デイは無理、年寄りが通うところ、行ってもどうにもならないという本人や家族、当事者の思いの中で、嫌でもなんでも本人の心のケアの為にやってくる訪問看護士は有効であると私は思います。
守秘義務があるから家族には言わない、本人とだけ話すというスタンスがあるので、本人も発症した事で思っている家族についての思いを話す事もできますし、病気に対する不安も暮らしの不安も話せます。
誰も本音を話せる相手のいない常態というのは、進行にとって絶対によくないと思います。
進行してしまって自分が認知症だと言われても、理解する事ができなくなっていても、家人が家族ゆえの介護の困難さに直面した時に、いつもの看護士さんがやってくる常態を作っていれば、少なくともその救いはあるのではないかと思います。家族が頼れる医療の専門職がいるわけです。病院に行く事も困難になるかもしれません。そんな時に頼りになるはずです。知らない看護士より、いつもの看護士であれば、記憶できないなりに、なんとなく受け入れるかもしれません。
私の知っている方で、私を誰か認識するのが困難になっておられる方がいらっしゃいますが、いつもの人的な存在として、にこにこ応対してくださいます。それは記憶できないなりに、定期的にお目にかかっているからどこかで覚えていて下さっていると感じます。
ということは、家族が本人に忘れられたくないと思うなら、会うべきです。
たまにしか会わないと、どんどん忘れるのはあたりまえです。
遠距離介護とか、別居されている子供世代は、忘れられたくないなら、会うべきです。
同居していても忘れられてしまう時はいつか来ます。
けれども別居している事で会う機会が少なく、忘れる速度が速いのはどう考えても当たり前です。
忘れられてからショックを受けるよりは、会うべきです。
経験談です。
忘れられた経験があるので。
父の発言の中には、時々なるほどと思う事があります。
デイは行くべきだ。
一度拒否し、その後訪問看護のおかげで、ひきこもりを脱却し、デイ見学ツアーをし、デイに通う事で能力維持ができる事を理解した本人が言うのですから、正しいのだと思います。
けれど、私はデイに行く事がストレスなら行くべきではないと思います。
たとえば最初からデイに嫌々通わせていたら、迎えが来たよ行って、と行かせていたら無理だったと思います。ストレスをかけてしまっただろうと思います。
今でも高齢者の方、進行した方と過ごしている中で、自分もああなるんだと思うとストレスだと言います。そんなストレスを毎日与える事になるのです。
自分から行く事に意義をみつけたら行くべきです。
けれど進行してしまうと、行く意義が自分でみつけられません。
行く事にストレスではない老人ばかりでも進行した方ばかりでもないデイがあれば良いなと思います。
進行する前に、ぜひデイに行く意義をみつけて行き始めてほしいですし、ご家族には本人の自尊心を傷つけないスタッフのいる、受け入れてくれるデイを見つけてほしいと思います。
今日は、訪問看護のあと、新型インフルの予防接種に行きました。
ちょっと気になる事がありましたが、書けません。
インフルエンザの予防接種は毎年必ずしています。
誤飲しやすいので、肺炎も心配で、肺炎の予防接種も受けました。
肺炎の予防接種は5年有効だそうです。
じゃあまた五年後かというと、一生に一回だそうです。
意味がわかりません。
実費でうつんだし、五年ごとで別にいいと思うんですが。
うちの父の場合、脳より先に体がダメになるのではないかと、よく話ています。
認知症があるから私が聞くというと、どの医師も本人の扱いがいい加減になる気がします。
認知症の患者に丁寧に対応しても意味がないというような。。。
人権や尊厳がないような対応をみかけます。
あからさまに出はないですが、コンビニ診療に拍車がかかるような。
本人が何か言っても取り合わないのです。
どこか時々痛むとか言うと、ふーんあっそう、的な感じ。
それよそでみてもらって。という態度。
めまいがすると言うと、耳鼻科、耳鼻科で言うと、脳外、脳外で言うと、精神科(認知症主治医)へ、そんな調子です。
たしかに、原因はどの分野にも可能性が考えられますが、自分のところを否定する理由ぐらい出してから回すならわかります。ただのたらい回し的な対応はやめてほしいです。
たまーに真剣にとりあってくれる先生に出会うと、ちゃんと本人の訴えを聞いた上で、家族にもそうなんですかという目を向けて、訴えの頻度などを聞いた上で、じゃあ専門医の何科に行くといいですと言う先生がいます。
それが当たり前であってほしいのですが、それがマレなんですよね。。。
認知症患者の家族が、認知症専門医で満足を覚えないケースをよく聞きますが、認知症専門医でさえも、本人や家族に向き合う姿勢がなく、コンビニ診療をしている、あるいは認知症につける薬はない、認可薬なんて限られてるんだから一ヶ月分処方すれば事足りるとばかりの印象を持つ事があります。進行するしかないのも、薬がないのもわかるんですけど、周辺症状にしっかり薬だけでない対応をする必要が絶対あります。
家族の気持ちを受け止めるだけでも、家族は聞いてもらった事、常態を知ってもらった事で、少し気持ちが軽くなります。それで本人に対しての対応がマシになると思います。誰も聞いてもくれない、専門医ですら、家族の大変さを理解してくれないと感じたら、絶望感が増して、家族は暮らしの中の気持ちが追い詰められていきます。
家族の気持ちだけでなく、本人の精神状態の把握ももちろんしてほしいです。
本人が家族とけんかごしでしか団らんを持てないとしたら、それは自分の病気による能力低下に腹を立てているのかもしれないし、思い悩んで自分だけで思い詰めているからかもしれない、心の健康状態を損ねているだけで、心の元気を取り戻せば、記憶等のメインの部分以外は、本人らしさを取り戻して家族と毎日の暮らしを大切にするかもしれない、そう考えて、本人の気持ちの行き場をケアに打診したり、何らか本人に対しての見つめる目をもって接してくれたら、本人はあ、ここに理解してくれる先生がいる。治らないけど、毎月会って進行を見守ってくれる先生がいる、理解してくれる人がいると思えたら、どんなに救われるでしょうか。
ガンだったらどうでしょう。きっと、先生は同情して優しく接してくれます。
認知症患者さん本人に、本人の心を大切に尊重して話しかける先生がどれほどいるでしょうか。
家族にすら、そんな話しかけ方をしていない先生が多いのではないでしょうか。
認知症専門医でもそんな調子であれば、他科の先生は、本人や家族に対して、どうでしょうか。
何科の先生でも、本人の気持ちを尊重し、付きそう家族の気持ちを大切にして、接する事を忘れて、日々の診療をこなす事と、治せる人を治す事、進行する人に投薬で緩くすればいい、それだけが仕事で、人対人を忘れている人が多いように思います。
接客業だと時々聞きますが、接客業以上であるべきだと思います。
医療に心が伴っていれば、もっと効果があがるのではないかと思います。
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